2017.6.3買取情報【北大路魯山人/色絵有平縞文湯呑/陶磁器】

北大路魯山人色絵有平縞文湯呑です。シンプルながらも圧倒的な造形美、迷いのない筆致による絵付けに揺るぎない美意識が感じられます。「用の美」にこだわった魯山人ならではの作品です。優品ですが、残念ながら側面に疵があります。

北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)

1883(明治16)~ 1959年(昭和34)
日本の芸術家/京都出身

篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家と各方面で才能を発揮
本名:北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。

【略歴】

1883 京都上賀茂神社の北大路清操の次男として生まれる、本名房次郎。
1904 日本美術展覧会に隷書千文字出品、一等賞受賞。
1905 書家岡本可亭の内弟子となる。日本美術展覧会に楷書出品、入賞。
1907 可亭方を辞し、中橋和泉町に移転、書道教授として独立。号「福田鴨亭」
1910~1912 朝鮮へ渡行。
1915 九谷の陶工須田青華窯にて染付・赤絵を試みる。
1919 中村竹四郎と共同で京橋に「大雅堂芸術店」開業。後、鎌倉に移転。
1921 会員制「美食倶楽部」を発足。
1923 関東大震災により大雅堂美食倶楽部焼亡、芝の「花の茶屋」にて美食倶楽部再開。
1924 京都の宮永東山の指導で青磁などを試みる。荒川豊蔵とも東山窯にて知り合う。
「美食倶楽部経営星岡茶寮再考主意書」を各方面に発送。
1925 星岡茶寮開始。同茶寮にて「北大路呂山人習作第1回展」開催、書・陶器を出品。
1926 北鎌倉に築窯。
1927 鎌倉山崎に、魯山人窯芸研究所星岡窯発足。
1930 荒川豊蔵と美濃の古窯跡発掘。
1935 大阪星岡茶寮開業。
1936 星岡茶寮の内紛により魯山人追放。
1939 山崎の魯山人陶芸研究所全容完成。
1945 東京・大阪両星岡茶寮とも空襲により焼亡。
1946 東京銀座に自作店火土火土美房開業。
1949 金沢市成巽閣にて「魯山人作品発表会」開催。イサム・ノグチ夫妻来訪滞在。
1951 パリ、チェルヌスキ美術館にて「日本陶芸展」開催。板谷波山、河井寛次郎、浜田庄司、加藤土師萌、加藤唐九郎らと共に出品。
1952 個人誌「独歩」創刊。
1953 日本橋壺中居にて「第1回備前作陶展」開催。裏千家にて「魯山人作品展」開催。
1954 ニューヨーク近代美術館にて「魯山人作品展」開催。
1955 重要無形文化財(人間国宝)の認定を辞退
1959 死去

篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた魯山人。
高い美意識と才能は各分野で発揮され賞賛を受けています。

若き頃には中国北部を旅して書や篆刻を学び、
帰国後は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を残しています。
1919(大正8)年には大雅堂美術店、続けて会員制食堂「美食倶楽部」
東京永田町の料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」など次々と新しい事業を展開。
星岡茶寮では、顧問兼料理長をつとめ独自の哲学に基づいた料理を提供し、
当時の日本料理界に変革をもたらしています。
また「食器は料理のきもの」という信念を持ち、自ら作陶を始めるに至ります。

陶芸制作に専念した1936(昭和11)年以降は、
中国の古染付、呉須赤絵、 桃山時代の志野、
織部など格調高い伝統をふまえた技法を現代に再現、
高い美意識を以て「用の美」を具現化しています。
その後も持ち前の才能を発揮し、制作活動を画・漆芸へと広げ、
食の文化を原点に独自の芸術世界を築きあげました。

1955(昭和30)年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるものの、辞退しています。
生涯を通して独自の美の哲学を貫いた孤高の芸術家であった魯山人の作品は
現在でも大変人気があり、高い評価を受けています。

銀座・大雅堂美術では北大路魯山人他、荒川豊蔵、板谷波山、河井寛次郎、浜田庄司、加藤土師萌、加藤唐九郎など陶磁器・茶道具の買取り・鑑定について随時ご相談承っております。お手元のお品のご売却をお考えの際には是非ご一報ください。